Avalanchistの原点

京都市立北白川小学校時代

「京都の東山のふもとで育った私は、山に登るのが本当に朝めし前でした。小学校の担任の先生や級友とともに、小3から小6までの4年間。ほぼ毎朝5時半に起きて、近くの大文字山へ登り続けたのです。

汗をかいて登り、頂上(大の字の中心)できれいな空気を深呼吸し、眠りからさめはじめた京都の街を見おろすのは、とてもすばらしい気持ちでした。

それだけではありません。小さな山でも、雨の日も風の日もかよい続けると、山が生きており、少しずつ様子が変わるのがわかるのです。

その後、登山やスキーに熱中した私は、大学を出てから、雪国の山やまを歩いて森林と山の動きの関係を研究する仕事を選びました。」

新田隆三著『たたかう森』(PHP研究所 1984)の「著者のことば」から

『たたかう森』(PHP研究所 1984)の「著者のことば」1981年から2004年まで新田姓でした。

北海道大学スキー部時代

1958年に北海道大学理類に入学、同時にスキー部山班(現在の山スキー部)に入部した。

3年間の山行記録によれば、ムイネ小屋91日、テイネ小屋29日、十勝・大雪山系90日、日高22日、ニセコ32日、その他48日。年平均104日の山浸りで、よくぞ4年で卒業できたものである。その代わり、運動神経に乏しく、不器用でもある私だが、山とスキーの力量はそこそこ身についた。ありがたいことである。

2年目の後半には、農学部の林学科に移行した。スキー部のOBでもある村井延雄先生が主宰する理水砂防学研究室に拾ってもらった。道北の天塩山地の北大演習林には、自然発生の雪崩だらけの丘陵山地がある。「若林クン、ここの積雪調査をお願いするよ!」 いやも応も、私は激しく尻尾を振っていた。

こうして危険な雪山を歩く能力を見込まれて、私は3年生で学会にデビューした。先生方を前にした最初の口頭発表は、完全に上がってしまい、記憶も飛んでいる。

若林・藤原・村井「天塩川流域における積雪調査例」 日本林学会北海道支部講演集10号、1961
藤原・若林・村井「天塩川流域における積雪調査例」(2報) 日本林学会北海道支部講演集11号、1962

1960年1月北大天塩第一演習林にて1960年1月北大天塩第一演習林にて。
左は神室式採雪パイプ、真中:小生、右:村井先生

この調査は後に北海道全域の雪崩発生区にまで広がり、私の学位論文(北海道大学農学博士、1971)として実を結んだ。

2020-11-29|
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