Avalanchistの原点(続)

雪崩学の歴史を変えた荘田(しょうだ)幹夫博士

1958年5月

私が北海道大学スキー部1年次生だった頃の日記にメモってあった:

昭和34年2月26日(木)10.30 山本OBと札鉄「雪崩講演会」へ。
講師は、塩沢雪の研究所長荘田幹夫氏。

上越/枝折峠でS.33年(以下昭和を省略)に実行された人工雪崩の16ミリ映画を見ることができた。映画の中では、予想以上にクラックがひろがりカメラの足下まで押し寄せ、撮影者の荘田さんが「ギヤー」と悲鳴をあげている音声も入っていた。

晩に録音を聴いたら、最初の雪庇崩落で「ワースゲー」と一声を発し、その後悲鳴を上げたのは、大部分が事前、皆に発声厳禁を云いきかせた私自身だった。(雪氷20巻3号p.32)

授業をさぼって国鉄職員の参加者に混じった19歳ほやほやの若者は、日本初・ダイナマイトを用いた人工雪崩爆破をみて、「すごい!日本でもこんなすごいことをやってるんだ!」と興奮した。若者の中で荘田さんが永遠になった。

濃い御縁であろう。荘田さんに触発されて、後に私も雪崩研究者になった。いや、雪崩教育者に。京都から札幌から塩沢詣でを十余年続けているうちに、雪崩について「俺の後は若林クンだ!」(間接的に聞いた)と荘田さんに未来を託された。私は嬉しくて奮い立った。

没後30年の荘田Love by Wakabayashi

荘田さんは北大物理学科を出て、戦後すぐに中谷宇吉郎大先生の推薦で国鉄技術研究所へ送り込まれた。中谷大先生は物理学と工学を結ぶ仕事を「金のタマゴ」に託し、荘田さんは見事に期待に応えた。

 

荘田さんは痛快なほどの英才、かつ燃える男であったが、過労のため白馬五龍スキー場の雪崩コンサルティングの帰途、長野市のホテルで急逝された。50歳の若さであった。

2003年に没後30年の集いが塩沢市で行われた。実行委員長は私だったが、予稿集の原稿のほとんどは、地元町田建設社長の二代にわたるお世話で荘田記念ゴルフコンペを毎年続けてきた、「荘田親衛隊」の手によるものだった。学会の予稿集というよりは、荘田さんへの熱いラブレター集になってしまっていた。

S.39年「雪氷」誌の中谷先生追悼号に荘田さんはこう記している。

「日本における雪氷研究の歴史から中谷先生を取り除いたら何が残るだろうか。おそらく、かつての趣味としての、あるいは余技としての一握りの篤志家による研究の域を出ず、今日、この道をライフワークとする若い雪氷学者達の活躍は見られなかったであろう。

その意味で先生は我が国の雪氷学に一本の筋金を打ち込まれたといえよう。先生の場合、御自身で手をつけられた研究業績以外に、先生によって希望と処を与えられ、また育まれた大勢の弟子達の存在自体まで左右されることになるから、今日の雪氷学に対する影響は極めて大きい。」

荘田さんも偉才であり、「雪崩研究の歴史から荘田さんを取り除いたら何が残るだろうか。‥‥」という大きな大きな存在であった。中谷先生から荘田さんに継がれた科学ロマンの精神と熱いエネルギーを、私も誇りをもって新しい世代に伝えていきたいと思う。

by 高速道路技術者Iさん

大方の人は、死んで30年も経過すれば、既に過去の人となり、その面影もだんだんと、人々の記憶から遠ざかって行くものです。しかしながら、荘田幹夫さんばかりは全くそういうことはなく、何時までたっても、その人柄や業績が、人々の頭から消えて行きません。

今日にあっても、多くの人々が荘田さんの名前を口にし、その業績を語り合う場が絶えないのです。 まさに冥利に尽きると言って良いでしょう。 しかし、それにはそれなりの理由が無ければなりません。

先ず第一に挙げられるべきは、周りの人達に与える、荘田さんの魅力あふれる人柄でありましょう。 のびのびとした振る舞い、歯に衣着せぬ語り掛け、良い意味での個性の豊かさ、つまらぬ遠慮を取り払った人懐っこさ などなど~~~ お坊ちゃま的な性格の良い面だけを取り揃えたと言う事でしょうか。

第二番目は、何と言ってもその業績です。新しい事に、何ら臆することなく挑んで行く積極性は、素晴らしいの一言に尽きるでしょう。 これもお坊ちゃま的な性格の良い一面かも知れません。

何はさて置き先ずはやってみる事と言う極めて大切な事を、身をもって実行された訳です。 普通の人は、つまらぬことをあれこれと考えてしまって、中途半端な事勿れ的な行動をとり勝ちです。

第三番目は、小人数のグループの編成と、そのリード役が上手であった事。そのためには中心となる人に魅力が無ければなりません。 また、ことの性質上、科学技術的な優れた内容を備えていなければなりません。 荘田さんは、まさにこれらの条件を兼ね備えておられました。

by 送電線路技術者Iさん

現場実験は大掛かりなものだから多い時は、10人を超す実験従事者と雪掘りのため雇った多くの作業者が斜面のあちこちで働く。実験現場がよく見渡せる位置に、先生は陣取って采配を下す。研究者と言うより事業家であり、たとえて言えば、軍隊の隊長でもあった。若い試験従事者は先生に声をかけられて奮い立つのである。

先生の技術的業績を挙げる前に、優れた人柄によって人々を惹きつけた業績を称えねばなりません。

  • 実践への情熱と強い意志力有する。実現に向かっての企画力、綿密な準備の周到さと政治力も併せ持つ。
  • 一緒に居ると楽しくなるおおらかさと、豊かで純粋な人間性を有する。研究者、現場の人を問わずやる気のある人、行動力のある人を尊敬し、愛された。
  • 雪氷関係、学会の国内、国外の人々及びそれ以外の分野の人々との交際、交友の広さは驚くばかりで、それらの人々は異口同音に先生に対して親近感を持つ。
  • 偉い人にも物怖じせずに接しうる自分の高さを持つ。

荘田幹夫博士略歴

  • 1924年  東京都に生まれる。
  • 1947年  北海道大学物理学科卒業。
  • 1943年1月 北海道大学鍛錬部山岳班員として、南日高厳冬期ペテガリ岳初登にサポート参加。
  • 1949年  国鉄技術研究所塩沢雪実験所を創設。電線着雪の研究に着手。
  • 1956年  国鉄技研防災部に所属し雪崩研究に着手。
  • 1957年  日本で最初のダイナマイトによる人工雪崩実験に成功。
  • 1965年  スイスDavosの雪崩国際シンポジウム(I.A.S.H)で発表。
  • 1965年~ 防雪工学ハンドブック、スイス雪崩防止構造物示方書の編集。
  • 1965年  「日本雪氷学会・なだれの分類名称」博士の雪崩写真を添えて決定。
  • 1972年  科学技術庁防災センター雪害研究所長を務める。
  • 1974年  スイス・グリンデルワルトのIGS国際シンポジウムで発表。
  • 1974年6月9日 出張先の長野で急逝。

 

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